芝居小屋


「嘘だ、こんなの……嘘だ……!」

 声を絞り出すように呟いて、フランシスは彼女に触れようと手を伸ばした。そうすれば彼女が目を開いて、悪戯がばれたときのように照れ笑いを浮かべるような気さえした。しかし背後から肩を掴まれて、フランシスはその淡い期待から引き戻されるように我に返る。

「やめておけ、もうどうにもならない」

 「……っ!」

  フランシスを引き止めたのは険しい顔をした若い男だった。彼もまたその光景をじっと見ていた。しかし彼の顔に浮かんでいるのはあからさまに苛立ちの混じった表情だ。

  フランシスは男を憎く思った。

(家族の死を目の当たりにしても、悲しむ顔ひとつ見せないのか)

 この男と顔を合わせたのは初めてのことだったが、フランシスは彼のことを以前から知っている。

 ロス・グレイノールは若くして政治に関わり、王位を継ぐために実力を積み重ねてきた王子だ。人々からは優秀で有能だと評価されているが、その反面、徹底した実力主義者で情のない冷淡な人物だとも言われている。

 こうして会ってみると、どうやら噂に聞くとおりの人なのだろうと分かる。端正だが他人を寄せ付けないきつい顔立ちは、彼が重ねてきた苦労と辛酸がそのまま刻みついているようだった。

 

「ロス殿下」

 彼の側に、初老の男が歩み寄った。

 「私が殿下の御心痛を推し量るなど、恐れ多いことではございます。ですが――」

「これはどういうことだ、シグノ卿」

 慎重に言葉を選んでいたシグノに対して、ロスは鋭い言葉を投げた。

「私が駆けつけたときには……すでに、このような状況でした」

 震えるか細い声で、シグノは言った。彼の方がロスよりもよほど取り乱していた。

 「よりによってこんな、フィオ殿下の公務への復帰が決まったタイミングで……何ということでしょう。殿下、我々は“癒しの力”を失ってしまったのです」

 綺麗に撫で付けられた髪を掻き上げると、混じった白髪も相まって、一層疲れた顔に見える。シグノの脳裏には、この国の行く末がありありと浮かんでいるようだった。

 「ああ。この国はもう、滅びるだけだ」

  ロスは不快な表情を隠しもせずに、嘆いているシグノを見ていた。しかしシグノが一向に立ち直る様子を見せないので、観念したようにため息をついた。

 「フランシス・ノクティス。君はなぜここにいる」

  唐突にロスの視線がフランシスに向いた。

 フランシスはまだフィオの身に起きたことを受け入れられないでいたが、自分を奮い立たせるようにロスを見た。

「フィオ殿下と、最後に会ったのが彼のようです。話を聞く必要があると思い……」

 シグノがわずかに顔を上げて言った。

 「他に、このことを知っている者は?」

「まだ誰にも知られていません。……陛下の耳にも入っておりません」

 「そうだろう。陛下は今それどころではない」

 

 彼らの会話は、フランシスにはひどく悠長に聞こえた。

(どうしてこの人達は、そんなに先のことばかり考えているんだ。それよりももっと先に、することがあるんじゃないのか?)

  フィオをこんな目に遭わせた人間が、まだこの近くにいるかもしれない。この王宮のどこかに潜んでいて、脱出の機会を伺っているのかもしれない。それなのに、彼らはまるでこの場から動く気配がない。いったいどういうことなのか。

 フランシスは一刻も早く犯人をこの場に引きずり出し、フィオと同じ目に遭わせてやりたいという衝動に駆られた。

 

「 “浄化の儀式”はどうなっている?」

「寺院からの返答は来ておりませんが、各関係者には通達しております」

「返答が来る前に同じ年頃の娘を探せ。この際、髪や目の色は違っていて構わん」

「今から見つかるでしょうか?」

 「何としてでも見つけろ。“浄化の儀式”は必ず行う」

 フランシスは彼らの話が飲み込めないでいた。

 (何を言っているんだ、この人たちは)

 儀式を行う? フィオがいなくなった今、どうやってそれが出来るというのだろう。それに同じ年頃の娘を探せとはどういうことか。

 

「しかし殿下、国王陛下には何と申すおつもりですか」

「陛下には、折を見て私から話す。君が案ずることはない」

「左様でございますか」

「誰にもフィオの死を気取られるなよ」

 

 「ちょっと待ってくれ!」

 フランシスはついに耐えかねて口を挟んだ。

 「フィオ様の死を隠蔽するつもりなのか?」

 「口を慎め、フランシス・ノクティス。君には関係のないことだ」

「はぐらかすのはやめてくれ!」

 フィオの死がなかったことになる。そうしたら、フィオを殺した人間はどうなる? 自らのしでかしたことの罪を償うことなく、のうのうと生きていくのか?

 そんなことはフランシスには耐え難かった。

(殿下、いったい何を考えているんだ?)

  しかしフランシスの必死の形相を目の当たりにしても、ロスは険しい顔を崩さなかった。

「この国にはフィオが、“癒しの力”が必要だ」

 “癒しの力”のことはフランシスも知っている。フランシスどころか、この国に住んでいる者は子どもだって知っていることだ。グレイノール王家にのみ代々伝わる、大地の汚れを浄化し、清めることができる不思議な力、それが“癒しの力”だった。

  しかし王家の人間だからといって、この力に恵まれるとは限らない。国王やロスにその力はなく、フィオただ一人が“癒しの力”を持つ王族だったのだ。

  そのフィオが今、いなくなった。

 

 「“浄化の儀式”さえ行えば、作物も以前よりは育てやすくなるだろう。それに、魔物の被害も減る。少なくとも国民はそう信じている。儀式は必ず行う。たとえ形だけの儀式だとしてもだ」

  フランシスはその言葉に唖然とした。

「そんなの、何の解決にもならないじゃないか」

 「今フィオの死を公表してどうする? ただ国民を絶望に突き落とすだけだ」

 「だから、フィオ様の死をなかったことにするのか?」

  フランシスは自分の声が震えているのに気づいた。

 フィオの命を踏みにじるような行為が、何より許せなかった。

「フィオ様の身代わりまで用意して、儀式を終わらせたかのように見せかけて、そうして国民まで騙すのか?」

 「話は終わりだ」

「私はフィオ様をこんな目に遭わせた奴を絶対に許さない! 必ずそいつの顔を国民の面前に引きずり出して、罪を暴く。たとえあなたが何を考えていようともだ」

 

 しかしどれだけフランシスが言葉を重ねても、ロスは冷めた眼差しを向けるだけだ。その埋めようのない温度差に、フランシスは薄ら寒いものを感じた。

 「君は自分の立場を分かっていないようだな」

 ロスが吐き捨てるように言った。

 「……どういう意味だ」

 彼はその目をフィオに向け、そしてフランシスに戻した。

 「なぜ一介の騎士に過ぎない君が、フィオに会っていた?」

 「それは……」

 それを語るのは、フランシスには耐え難い苦痛だった。忘れたいほど惨めな自分の過去と、そこからすくい上げてくれたフィオに対する想いを、よりによってこんな男に打ち明けなければならないかと思うと、腹の底から吐き気がする。

 しかしロスは、はじめからフランシスの返事など期待していないようだった。フランシスが押し黙るのを見て、彼はさらに言い募る。

 「奇妙な話だな。君と私の妹に、いったいどんな接点があったというんだ。君に会った翌日に、どうして妹が死んでいる? 君は果たして、妹の死と無関係だと言えるのか?」

 「何が言いたい」

「フィオを殺したのは君だろう」

  直截な言い方に、思わず息が詰まりそうになる。

 「よくも、そんなことを……」

「荒唐無稽な話ではないだろう? そもそも君が今、拷問にかけられないで済んでいるのは、私がフィオの死を公表しないと判断したからだ。本来ならば君は真っ先に疑われる立場にいるということを自覚しろ」

 フランシスは何も言い返すことが出来なかった。

 

「殿下、お戯れは程々に」

  意外なことに、それまで話を聞いていただけだったシグノがその会話に割って入った。

「戯れ? 私は本心からそう言っている」

 「今は何より、娘の候補を探さねばなりません。何しろ時間がございませんから」

  シグノはまだ表情に悲壮感が漂っていたが、先ほどよりはましな顔つきになっている。

 「幸いなことに、私の屋敷に口が固く度量のある娘が働いております」

「すぐに王宮に来させろ。それから、後のことは一任する」

 「承知しております」

 

 シグノといくつかのやりとりをした後、ロスがフランシスを見た。

 「今日かぎりで騎士の任を解く。荷物をまとめて兵舎を出ろ」

 

 その宣告は、今のフランシスにとっては何より重い言葉だった。

  自分に選択肢などほとんど残されていないのだと、フランシスは悟った。

 この王宮を出て、行くあてなどどこにもない。しかしそれよりももっとフランシスにとって重要なことがあった。

(私がここを離れたら、フィオ様はどうなるんだ?)

   新しくやってきた身代わりのフィオ様が、形だけの“浄化の儀式”を行ったところで、人々の生活は好転しない。国民は本当のフィオがもういないとも知らず、彼女への不満をますます募らせていくのだろう。そして彼女の死の真相は、永遠に闇に葬られる。

 そうなればフランシスは、きっと自分を許せないだろう。

 最後にフィオに会ったとき、自分は彼女だけの騎士だと言った。その誓いすら守れないというのか。

 

「お待ちください!」

 フランシスは考えた。自分が今王宮を去るわけにはいかない。彼らを引き留めるに足るものが、果たして自分の中にあるだろうか。けれどたとえ強引な理由だとしても、先ほどの言葉を取り消させなければいけない。

 フランシスは考えて考えて、そして、自分の顔を覆う兜を取った。癖の強い金髪と、少年のような顔が露わになる。

 

「まだ私には、お役に立てることがあります」

  中性的な顔立ちに、意志の強そうな目元は少年のようにも見える。しかし赤く色づいた頬や、鎧の隙間から見える細い首、そうした少女らしい要素がフランシスの性別を主張していた。

 「フィオ様の身代わりが必要なら……私を使ってほしい」

  フィオの死を隠し通すつもりなら、身代わりの娘を探すことにも懸念はあるはずだ。先ほどの会話からすると当てはあるような様子だったが、それにしたって急場しのぎには違いない。その娘が本当に信用できる人間かどうか分からない以上、すでにフィオの死を知っているフランシスが身代わりになるというなら、あえて彼らが危険を冒す必要もなくなる。そう思っての賭けだった。

 

  まず口を開いたのはシグノだった。

「君は“浄化の儀式”には否定的だったのではないかな?」

「先ほどは冷静さを失っていました。私の望みは、フィオ様の死の真相を知ることです。それ以外のことに関与するつもりはありません」

 「ふむ……どういたしましょう、殿下」

 ロスはやはり顔色一つ変えなかった。

「君がフィオを殺した可能性がある以上、君を使うつもりはない」

「ならばなおさら、私を手元に置いた方が良いのではありませんか?」

 フランシスは畳みかけた。

「本当に私がフィオ様を殺したと思うなら、なぜそんな危険人物を野放しにしようとするのですか? それとも殿下は厳しいことを言いながらも、本心では私の無実を信じてくださっているのでしょうか」

 ロスは口調こそはっきりしていたが、その言葉の真意に矛盾があることをフランシスは感じ取っていた。彼の言っていることはただの脅しだ。本当に自分を疑っているわけではない。

 フランシスは自分が有利に立ったことを感じながら、ロスの顔を見据えた。彼の顔には、さきほどは感じられなかった苛立ちの表情がはっきりと浮かんでいた。これがこの男の本性か、とフランシスは思った。

 この男は、国の行く末など考えていない。ただその場しのぎの嘘を貫くために、フィオの 死を隠蔽しようとしている。彼の中にあるのは保身だけだ。

 ならばそれを利用してやる。

 

「……いいだろう、その心意気を買ってやる」

  ロスはついにそう言った。

 「後悔するなよ、フランシス・ノクティス。これは君が選んだ道だ」

 どこか含みのあるような言い方だった。

「私は後悔などしません」

 フランシスが言うと、ロスは露骨に眉をひそめて、そのまま部屋を出て行った。

 残されたのはフランシスとシグノだ。 「人目に触れないよう、ここからフィオ殿下をお連れしよう」

 シグノが言った。

 「君もその鎧は脱いだ方がいいね」

 そう言われて、フランシスは改めて自分の姿を見る。フィオに駆け寄ったときに付いた血は、時間が経って少しずつ黒ずみはじめている。それを見ていると、フランシスは少しずつ自分の頭が冷えていくのを感じた。怒りと憤りに支配されていた頭も、冷静になればゆっくりと悲しみが顔をもたげてくる。

「別れる時間が必要かい?」

 シグノの言葉にせかされるように、フランシスはフィオに駆け寄った。

 

  彼女をひと目見て、フランシスは言葉を飲み込んだ。

(どうしてそんなに、優しい顔をしているんだ)

 彼女の顔は安らかだった。胸をひと突きにされて、こんな無惨な最期にも関わらず、苦悶の表情ひとつ浮かべていない。彼女は最期に何を思ったのだろう。それを知るすべは永遠に失われてしまった。

 

 ――ねえ、フランシス。ずっと私の騎士でいてくれる?

 

  彼女の柔らかい声が、頭の中で響いている。フランシスが彼女のために出来ることは、その約束を守ることだけだった。

「たとえあなたがいなくなっても、私はあなたの騎士です」

 

 彼女のためなら、フランシスは何だってするつもりでいた。それはこれから先も、永遠に変わりはしないだろう。



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