芝居小屋


 フィオの部屋は西の外れにあった。兵舎から向かうと、ちょうど本館を通り過ぎた先に見える、小さな塔がそれだ。

 塔に近づくにつれて人通りが減っていき、本館を回り込むように進んで小さな庭園に入ると、いよいよ誰ともすれ違わなくなる。ここまで来ると、王宮の華やかな雰囲気や喧騒はどこにもない。 庭園にはどこにでも咲いているような野花が園芸用の花と並ぶように植えられており、すぐ近くでは鳥のさえずる声や虫の羽音が聞こえてくる。

  フランシスは花壇を通り過ぎたところで立ち止まり、小さく息をついた。目前には、その庭園を見下ろすようにして塔が立っている。

 木製の扉に手を掛けようとすると、塔の中からぱたぱたと足音が響く。そして次の瞬間に、勢いよく扉が開いた。

「おかえりなさい、フランシス!」

 出てきたのは、フランシスと同じくらいの年齢の少女だった。彼女はフランシスの姿を確認すると、その素朴で優しげな顔を綻ばせて、弾けるように飛び込んできた。

 「フィオ様!」

 フランシスは慌ててその体を受け止める。彼女の栗色の髪が鼻の先に当たり、日向のような匂いがした。

 彼女には、一国の姫であるということを忘れさせるような気安さと親しみやすさがあった。だからフランシスは、彼女といるときはいつも身分の違いを意識するようにしている。彼女は住む世界の違う人なのだと自分に言い聞かせていないと、彼女と自分の間にある隔たりをつい忘れてしまいそうになる。

 

「フィオ様、服が汚れてしまいます」

  フランシスはフィオをやんわりと引き離そうとした。彼女の肌はフランシスとは比べ物にならないほど柔い。フランシスは鎧の留め具が彼女に怪我をさせてしまうのではないかと、いつもひやひやしていた。

「私、そんなの気にしないわ」

  そうして不満そうな顔をしていたかと思うと、次の瞬間にはその顔はいたずらを秘めた子供のような笑みに変わる。

 フィオが手を伸ばして、フランシスの頭――兜の部分に触れた。いったい何をするつもりなのかと思っていると、突然、視界が広がった。

 いったい何が起こったのかと考えるまでもなく、彼女の腕の中に兜が抱えられているのを見て気づく。自分が素顔を晒してしまったことに。

 困惑するフランシスを見て、フィオはますます楽しそうに笑った。

「ふふっ」

 「フィオ様……」

 フランシスが兜に手を伸ばそうとすると、フィオは少し不満そうに口をとがらせた。

 「もう、せっかく綺麗な金髪なのに。どうして隠すの」

 「別に、隠しているわけでは」

  そう、隠しているわけではない。フランシスはただ、自分が今ものうのうと騎士団に所属しているという事実に、後ろめたさを感じているだけだった。いつも鎧姿でいるのは、過去を戒めるためにと、自分自身に課したことだった。

  それにフィオは綺麗だと言ってくれるが、フランシスの髪は短く切っても分かるほどの強い癖っ毛だ。誰かに見せて喜ばれるようなものではない。

 

  兜を返すか、返さないか、という応酬をフィオと繰り返しながら、フランシスは彼女が普段と変わりないことに安堵していた。やはり先ほどの話はただの噂に過ぎなかったのだろう。

 「ね、フランシス。外に出ましょう?」

 ようやく自分の手に帰ってきた兜を頭に装着していると、フィオが言った。

 「とても良い天気だもの」

  彼女の言う通り、雲ひとつない晴天だった。

 

  彼女と外に出るときは、庭園で過ごすと決まっている。そこで何かをするというわけでもなく、2人で日に当たりながら草木を眺めるのだ。

  フィオはそういう時間を退屈だとは思わないようだった。彼女は草木やそこに集まる小動物が好きで、花に群がる虫を触ることにさえ躊躇しない。

 そんな王族らしからぬ彼女と過ごしていると、フランシスはどういうわけか胸の中が温かいもので満たされたような気持ちになる。そういうときは不思議と時間も緩やかに流れていくように感じられた。

 

 「ねえ、フランシス。ずっと私の騎士でいてくれる?」

 

  穏やかな時間に杭を刺すように、彼女が言った。

  唐突な言葉だった。

「……何かあったのですか?」

 フランシスはどうして彼女がそんなことを言うのか分かりかねて、すぐに答えられなかった。

 「私、いよいよお務めを果たすことになったわ」

「それは、公務に戻るということですか?」

「ええ。部屋も本館に移ると思うの。だからもう、ここにはいられない」

 それはつまり、この穏やかな時間が終わるということでもあった。

 本館での生活は、きっと彼女には窮屈すぎるだろう。しかし彼女がずっとここに閉じこもっていられるような身分ではないことは、フランシスもよく知っている。 自分は励ましの言葉でもかけて、清々しい気持ちで彼女を見送るべきなのだろう。

 しかしそれが出来なかった。

 

「あなたならきっと、立派に務めを果たしてくださると信じています」

  かろうじて出てきたのは、そんなかしこまった言葉だった。

「そう、本当にそう思う?」

  フィオはすがるようにフランシスを見ていた。その目が不安で揺れているのがはっきりと分かる。

 「私、最後に国民の前に立ったのは、10年以上も前のことなのよ。そのときのことなんて何一つ覚えていないわ。まだ子どもだったんだもの。そんな私でも、ちゃんとこの国のお姫様になれるかしら? 本当に?」

  彼女らしくない、感情を高ぶらせたような声だった。フランシスは彼女のそんな声を初めて聞いた。

 フランシスはさきほど聞いた騎士たちの会話を思い出していた。

 

 『いったい何時まで引き篭もって、公務を果たさないつもりなんだか』

『あとを継いだのがあの姫様じゃ、王妃様も浮かばれまい』

 

 彼女が不安にならないわけがない。 フィオが公務から離れてずいぶん長い。今では彼女の本当の姿を知る人間はほとんどおらず、悪評だけが独り歩きしているような状況だ。

  そんな状況で政治の世界に1人、放り出されて、果たしてそこに彼女の味方はいるのだろうか。 せめて自分が側で彼女を支えられたなら、どれだけ良かっただろう。しかしそれは叶わないことだ。

 

 「……私、お姫様になんてなりたくなかった」

 

 フィオがぽつりと言った。

 その言葉にどれほどの想いが込められていたのだろう。普段は気丈な彼女が小さく肩を震わせている姿に、フランシスは急き立てられるような想いに駆られた。

「フィオ様。私はあなたの……あなただけの騎士だ。もしもあなたが望むなら、このまま一緒にどこか遠くへ逃げたって構わない」

 それは心から偽りのないフランシスの気持ちだった。

 フィオは驚いたようにフランシスを見る。

 「本当に?」

  フランシスははっきりと頷いた。

 「でも、だって、あなたはこの国の騎士よ。私と逃げてもいいだなんて、国を裏切るのと同じことじゃない。誇り高いあなたが、そんなこと……」

「騎士としての誇りなんて、私にはもう残っていません」

 フランシスは自嘲するように笑った。

 「だけどあなたのためなら、私は命だって惜しくありません。知らなかったのですか?」

  フランシスは初めてフィオに会ったときから、彼女のために生きて彼女のために死ぬのだと決めていた。これから先どんなことがあっても、それは変わらないだろう。

 

 フィオはしばらく呆然とフランシスを見ていたが、ついにくすりと笑みをこぼした。

「もう、フランシス。命だなんて馬鹿なこと言わないで」

 そう言って、いつもしているように彼女はフランシスに抱きついた。

 「……本当に、もっと自分を大切にしてね」

 フィオの背中に手を回すと、彼女は嬉しそうに顔を埋める。

 フランシスはこの期に及んで、初めて鎧姿で彼女に会いに来てしまったことを後悔した。今思いっきり彼女を抱きしめ返したら傷つけてしまうだろうかと、そんなことが頭をよぎる。

 「ねえ、フランシス。私はあなたと過ごした時間だけは、自分の使命や重荷を忘れられた。グレイノールのお姫様じゃなくて、ただの私でいられたの。それが一瞬の夢に過ぎないってことは、初めから分かっていたわ」

 そう語る彼女の言葉には、覚悟のようなものが感じられた。

「どうか私のことを忘れないで。私がこれから演じるフィオ姫じゃなくて、あなたと一緒に過ごした、ただの私のことを覚えていて」

 「あなたはそれでいいのですか?」

 「ええ。あなたが覚えていてくれるなら、私は最後までフィオ姫でいられる気がするの」

 どこか吹っ切れたような笑顔で、彼女はそう言った。

 

  そうして彼女は、フランシスとは別の道を歩きはじめた。

   ――そのはずだった。

 

 

 

 

 

(どうして……)

  フランシスは目の前の彼女の姿に絶望した。



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