芝居小屋


PIERROT

 早坂広斗は、今日で2度目のため息を吐いた。

 彼の手の中では、スマートホンがぶるぶると震えてけたたましい音を立てている。そのディスプレイには、着信を表すアイコンと[非通知]の文字だけが映し出されていた。

 

「もしもし」

 

 早坂が電話に出ると、すっかり聞き慣れてしまった女の声が、ねっとりとまとわりつくように響いた。

『どうもぉ、早坂さん。考えていただけましたでしょうかぁ?』

「あんた、いったい誰なんです?」

『私が誰かなんて、どうでもいいじゃないですかぁ』

 

(どうでもいいわけがないだろう!)

 早坂は舌打ちした。この女の鼻につくような声も、人を馬鹿にしたような態度も、早坂には何もかもが不快だった。

「君がさっき言った通りに、金庫の中身を確認した」

『それではいよいよ、私が申し上げございましたことを信じてくださったのですねぇ?』

「ふざけるな、これは犯罪だぞ!」

 早坂が声を上げると、目の前で餌をついばんでいた鳩がパタパタと音を立てて空に飛び立った。それと同時に、ブランコを漕いでいた少女がぎょっとしたように早坂を見る。しかし早坂はそれに気づかなかった。

 

「中に入っていたものをどこへやった?」

『ご安心ください、ちゃんと返しますよぉ。それに私には、貴方の願いを叶える用意がある、そう言ったでしょう?』

「それは……」

 早坂はつい、言いよどんでしまった。

  得体の知れない女の甘言に心が揺らいでしまったことを、素直に認めてよいのだろうか。自分は今、恐ろしい詐欺にでも遭っているのではないだろうか。頭の中にはたくさんの可能性が浮かび上がる。そういう不信感を完全に拭い去ることは出来なかった。しかしそれでも、彼は自分の中にある欲求に従った。

 

「本当なんだろうな?」

『ええもちろん。しかしその場合、依頼料としてこちらを頂くことになりますが』

「こちら? 何のことだ?」

『貴方様が金庫に入れて、私どもがお預かりしたもののことですよぉ。大切なものだったんでしょう?』

 早坂の喉がゴクリと鳴った。

 

「それを差し出せば、願いが叶うと? 本当に?」

 

「嘘なんてつきませんよぉ。これはビジネス、ビジネスでございますからね」

 早坂は、内心では飛び上がるほどの喜びを感じながら、それを表情に出さないように気をつけた。

「分かった。金庫の中身はそちらに渡そう。その代わり――」

 早坂の言葉を、女の奇妙な声が遮った。

「みなまで申し上げる必要はございません。私どもは全て存じ上げておりますからねぇ」

「だが」

 早坂は不満だった。

 彼は自分の胸の内にあるその欲求を、誰にも打ち明けたことがなかった。それなのに、どうしてこの女がそれを知り得たというのだろうか。もし女の言ったことが嘘か、あるいは何かの勘違いであったら、自分の願いは叶わないだろう。それでは困る。

 しかし女は自信を持った口調で言った。

『それではご自宅に戻りましたら、金庫の中をご確認いたしませ。必ずやお望みのものが手に入りますよぉ』

「本当だろうな? こちらも大切なものを差し出すんだ。もしゴミでも掴まされたら――」

 ブツッ、と通話が途切れた。

 

「くそっ……」

 早坂は思わず悪態をついた。最初から最後まで、とにかく苛立たしい女だった。

 

 気分の悪さを引きずったまま、早坂はとりあえず自宅に向かった。今はとにかく、女の言葉を信じるしかない。

 公園を出ると、黄色く色づいた銀杏並木が早坂を出迎えた。すでに秋も深まってきた頃だ。この銀杏の葉が全て落ちるまで、あと半月もかからないだろう。それを思うと、無意識のうちに足が急く。早坂にはもう時間がなかったのだ。

 

 

 

 くだんの金庫は、早坂が自宅を出る前と何一つ変わっていないように見えた。金属のダイヤルを回して扉を開くと、そこには茶色い封筒が1つ、置いてあるだけだった。A4サイズのそれなりに厚みのある封筒だ。

(どういうことだ?)

 その封筒は早坂が以前に置いたものだった。電話のとおりなら、これと引き換えに早坂の願いを叶えてくれるという話だったはずだ。しかしここに置かれたままだということは、あの電話の話は嘘だったということだろうか。

 念のために早坂が封筒を手に取ると、ずしりとした重みが腕にかかる。中に入っていたのは紐で綴じられた原稿用紙の束だ。1枚、1枚と、紙を捲るごとに、いつしか早坂は書かれた文字を夢中で追っていた。その内容は、早坂の予想を超えるものだった。

 書かれていたのは、ある1人の男の物語だ。どこにでもいるような平凡な男が、偶然に手に入れた力で成功を収めていくサクセスストーリー。しかしその成功は全てお膳立てされたものであり、そうと知らない男は滑稽にも自分の力に酔いしれていく、そういう話だ。結末はなんとも後味が悪く、人間の深層心理をえぐるような、書き手の悪意に満ちている。

 

 これだ、と早坂は思った。

 

 とてもよく出来た小説だ。多くの人にとっては、ただそれだけのものだろう。しかしその小説を、早坂は何より欲していた。それが、早坂が思い描いた理想の作品そのものだったからだ。

 物語は冒頭の謎めいたシーンから始まり、次第に主人公の男の人物像が浮き彫りになっていく。その過程にはご都合主義的な胡散臭さが漂っており、全ての謎が明らかになると同時に、それらがより一層、物語に深みを持たせるような構成になっていた。

 しかし何より早坂が惹かれたのは、その作品から漂う強い才能の色だ。

  ただ面白い物語というだけではない。人が無意識のうちに抱える闇を暴くような切り口には、そんな手があったのかとつい唸ってしまうような凄みがある。その圧倒的な力量の差を目の当たりにして、早坂は恍惚とした想いを抱いた。この作品ならいける、という確信が彼にはあった。早坂はその原稿をすぐにでも出版社のデスクに叩きつけたい気分だった。

 

 しかしその高揚した気分はすぐに小さくなった。ちょうど玄関を出ようとしたところで、同棲していた彼女と出くわしたからだ。

「どうしたの、広斗。どこかに出かけるの?」

「ああ、うん。ちょっとそこまで」

 早坂は思わず、彼女から庇うようなかたちで原稿を隠そうとした。彼女はそれに気づかない様子で笑顔を浮かべていた。

「もうお昼でしょ? せっかくなんだから、ご飯を食べてから出かけなさいよ。ちょうど海苔を切らしていたから買ってきたの」

 彼女はそう言って、手に持っていたスーパーの袋を持ち上げてみせた。袋の中には海苔の他に、惣菜のパックが入っている。

 

 

 

 彼女、岩崎茜とは学生時代からの付き合いになる。当時の彼女は大学の演劇サークルに所属しており、華やかな容姿と抜きん出た演技力で周囲から一目置かれていた。そのときの早坂はすでに作家志望で、新人賞に作品を投稿していた。

 その頃は自分の文章を磨くために知り合いからちょっとした仕事を引き受けるようになっていて、演劇サークルに脚本を提供したこともあった。それがきっかけで彼女と知り合ったのだ。

 容姿端麗で性格も良い彼女は、当然のように周囲からの人気も高かった。そんな彼女と運良く付き合うことが出来たのは、早坂にとってはたった1つだけ大学生活で誇れることだった。

 何の成果も残せなかった早坂とは裏腹に、岩崎はその才能を遺憾なく発揮していた。はっきりと彼女から聞いたわけではないが、いくつか小さな事務所からの誘いもあったようだった。

  しかし大学の卒業と同時に彼女は舞台から完全に降りてしまった。

 

 そんな彼女が新しく始めたことが小説の執筆だった。

 はじめは早坂に影響されて趣味として書き始めただけの彼女が、早坂を追い越し、プロデビューを果たすのはあっという間の出来事だった。

 彼女が期待の新人作家として持て囃されているその間に、早坂は賞にかすりもしなかった。

 

「執筆は順調?」

 食事の合間に、岩崎は世間話でもするような気軽さで聞いてきた。

「まあ、順調かな。どうして?」

 早坂はなるべく平常心を保つように心がけながら聞いた。

「だって広斗、最近は私に小説を読ませてくれないんだもの。今回のは自信作だって言ってたじゃない」

「締切のぎりぎりまで推敲したいんだ。だからまだ見せられない」

 彼女の言う自信作は、すでに早坂の手元にはなかった。今頃はあの女の手に渡っていることだろう。しかし早坂にはもはやどうでもいいことだった。本物の才能にあふれた小説を前にすると、書き上げた当初は最高の出来だと思っていたその作品が、とんでもなくチープでお粗末な出来だったと気づいてしまったからだ。

「新人賞の結果は冬になるんだっけ? 入賞したら絶対に読ませてね」

「入賞なんて、そんな大したことじゃないよ。君の作品に比べたら」

「どうしたの、急に」

 岩崎が怪訝そうに言った。

 

「君の方こそどうなんだ? そろそろ新作を出す頃じゃないのか」

「うん、それね……」

 早坂が強引に話を変えると、彼女は表情を曇らせた。

「実はね、心配させちゃいけないと思って言わなかったんだけど……私の原稿、紛失して所在がわからないの」

 早坂はかける言葉を忘れてしまって、場に不自然な沈黙が流れた。

 

 ごまかすように「そうだったのか」と言えば、彼女もまた自分の失点をごまかすように笑った。

「こんなのプロ失格だよね。せめて下書きが残ってたら良かったんだけどぉ」

「書き直すことは出来ないのか?」

「全く同じものは書けないから……これから別の話を書くつもり」

 

 早坂は3度目のため息をついた。

「そうか。まあ、それくらいの失敗は君ならすぐに取り戻せるさ」

 早坂が言うと、彼女は少しだけ表情を和らげた。

「なんだか広斗、今日はちょっと優しいね? 慰めてくれてありがと」

「そうかな? ……ごちそうさま」

 早坂は彼女との話を切り上げて席を立った。

 

 ついこの間に買ったばかりのジャケットに袖を通していると、彼女が遠慮がちに言った。

「もしかして急いでたの? 引き止めちゃってごめんね?」

「いや、大した用じゃないよ。すぐに帰るから」

「ふふ。お帰りをお待ち申しております」

 少しかしこまって彼女が言うので、早坂は苦笑した。

 

「前から言おうと思ってたけど、お前、敬語の使い方がおかしいぞ」

「え、本当に?」

 彼女は今の今まで、そんなこと考えも及ばなかったという様子で驚いている。早坂はその姿に笑みを深めた。

「それでよく作家なんてやってられるよな」

「もう、そう思ってるならもっと早く教えてくれてもいいでしょ?」

 不満そうな彼女の様子が、早坂の優越感を刺激した。

 彼女は才能には恵まれているが、少し頭の弱いところがある。今まではそれを苛立たしく思うことも多かったが、今はむしろ、そんなところを何より愛おしく感じていた。

 

 もうすぐ、ようやく彼女を追い越すことが出来るのだ。

 

 並木道に広がる落ち葉の絨毯を踏みながら、早坂はこれから先のことを考えた。

 早くあの才能にあふれた作品を世に公表したい。きっと新人賞の審査員たちは度肝を抜かれることだろう。早坂にはその様子をありありと思い浮かべることができた。

 とくに男が絶望に落とされるラストシーンを見れば、彼らはもう、それを忘れることは出来ないだろう。

 

 早坂の足取りは軽やかだった。彼は眼前に広がっている明るい未来に胸を弾ませ、長く続いた投稿生活の終わりを目指した。

 

 

(2019.01.26)



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