芝居小屋


高貴なマンション

  金属バットが風を切り、小さなボールが高く高く、空の果てまで飛んでいく。

「やべっ!」

  小さな公園の入り口に植わっていた椿の垣根をあっという間に越えて、ボールはついに見えなくなった。

「悪い、やりすぎた!」

  自分が打ち上げたボールの行方を追いながら、比嘉拓海は仲間たちに声をかけた。すると一斉にやじがとんだ。

 

 「おいタク、本気で飛ばしすぎだろ!」

 「ちゃんとボール見つけてこいよ!」

  拓海も彼らに負けないよう、声を張り上げる。

「分かってるって! 俺のランドセルとバット見張ってて!」

 そう言って拓海は公園を飛び出した。

  この日は本当は、学校のグラウンドを使う予定だったのだ。けれどグラウンドは上級生が占領してしまったから、仕方なく狭い公園に移動した。ピッチャーがボールを投げ、バッターがそれを打つというだけの、得点も入らなければ勝敗もつかない退屈なゲームで満足するしかなかった。

 ボールの飛んでいった方を目指しながら、拓海は少しだけ清々しい気分になった。本当は、こんなふうに思いっきりボールを飛ばしたかったのだ。

 

 (この辺りに飛んでいったと思ったんだけど)

  公園のある小さな通りを抜けて、横断歩道を渡った先は、新しく出来たばかりの住宅団地になっていた。

 (どうしよう……)

 勝手に入って、怒られないだろうか。そんな考えが頭によぎる。

  どのマンションも入り口の扉には傷ひとつなくて、自動で開閉するオートロックのタイプになっている。マンションに住んでいる友達の家には行ったことがあるけれど、こんな設備のあるマンションを見るのは初めてだった。

「高級なとこなのかも」

 拓海が無意識のうちに思ったことを呟いていると、誰かが背後から近づいてくるのが分かった。ちょうどいい、事情を話してボールを探させてもらおう、と拓海が振り向いた。

 

  そこには頬の肉が少なくて痩せた感じがする、背の高い女性が立っていた。彼女の視線は拓海の顔より下に向いていて、話しかけるのを躊躇うような雰囲気があった。

 「あの」

 意を決して声をかけようとしたが、それよりも女性が口を開くほうが早かった。

 「あなたいま高級と言いました?」

 とても早口で、抑揚のない平らな声だった。その言葉の意味が分からず、拓海は聞き返そうとした。けれど視線を下に向けたまま、彼女の顔だけが拓海を覗き込むように近づいてきて、拓海は口から出かかっていた言葉をなくしてしまった。

「高級ではありません高貴なのです。そうここは高貴なマンション。理解できましたか?」

 自分はなんて所に来てしまったんだろう、と拓海は後悔した。女の言っていることが理解できない。それに普通に話をするだけなのに、どうしてこの人は鼻がぶつかりそうなほど顔を近づけてくるのだろう。

 「あの、俺……」

「高貴なマンションには高貴な者しかいりません。あなたは高貴ですかそうですか高貴ではありませんかそうですか」

 女は拓海の言葉などまるで聞いていないようだった。

「私は高貴ですがそうですか。あなたより高貴な私は私より高貴ですか?」

「えっ??」

 拓海は思わず聞き返した。

 「私は高貴ですハイ」

 女は自分で勝手に答えた。

 

  拓海にはこの状況が、何だか愉快なものに思えてきた。

 「……俺は高貴ですか?」

  興味本位に聞いてみると、女の目線が初めて拓海を見た。生気のないゾンビみたいな目だったのに、不思議と怖くはなかった。

「あなたは高貴ではありませんいりません」

 「じゃあ、少しの間だけ、ボールを探していいですか?」

  女はまた下を向いた。

 「ここは高貴なマンションですはい知ってます」

 「あれ?」

  さっきは質問に答えてくれたのに、女はまた独り言のように話し出した。

「えーっと……高貴なおばさん、聞いてください」

 すると女の目がまた拓海に向く。

 「はい高貴な私です」

 「俺は、高貴じゃないボールを探しています」

「高貴じゃないものはいりません。はいどうぞ」

 「……どうも」

 拓海はとりあえずボールを探すことにした。もう少しだけ女と会話してみたいという気持ちもあったが、のんびりしていて日が暮れてしまったら困る。少し歩いて振り返ると、女がこっちを見ながら、片腕を持ち上げて手首をプラプラと揺すっていた。何となく、手を振って見送っているような仕草に見えた。

 (何だったんだろう……ちゃんとした人に会ったら、敷地に勝手に入ったことを謝ろう)

 

  しばらくボールを探していると、背後から声がかかった。

 「探しものはこれかい?」

 拓海は身構えながら背後を見た。予想していたのとは違って、普通の人だった。背広姿の恰幅のいい男性だ。顔はちょうど逆光になっていてよく見えなかったけれど、白髪の混じり具合から考えて、50代くらいの年齢に見える。

  男の手には見慣れたボールが収まっていた。

「あっ、俺のボールです!」

「これはまた……高貴じゃないボールだね」

  男はそう言いながら、使い古されたボールの傷をなぞるように、手を当てた。

  高貴じゃない、なんて、どう考えても褒め言葉ではないはずなのに、男のその様子を見ていると拓海はこそばゆいような気持ちになった。

 「えっと……おじさんも高貴な人?」

  照れ隠しのつもりもあって、拓海はつい聞いてしまった。いきなりこんなことを言って、変な風に思われないだろうか、なんて考えはそのときは浮かばなかった。

「私はただの、管理人」

 拓海はその言葉を聞いて、慌てて頭を下げる。

「勝手に入ってごめんなさい。ボールも、次からは気をつけます」

「いいよ、いいよ」

  男はゆったりとした口調でそう言った。

 「もう日が沈む時間だろう、帰りなさい」

 「はい。ボール拾ってくれてありがとうございました!」

  男からボールを受け取ると、拓海はもう一度頭を下げてから団地を出ようとした。

 「あの子の相手をしてくれたんだね、ありがとう」

  去り際に、男がぽつりと言った。

 

 「願いを1つ、叶えてあげるよ」

 

  拓海が振り返ったときにはそこに男の姿はなく、高貴なマンションが夕日を受けて、赤く佇んでいるだけだった。

 しばらくその不思議な男について考えたが、よく分からなかったので、このマンションには変わり者が多いのだろう、と思うことにした。

 次の日、拓海は友達と同じ公園に来ていた。この日も学校のグラウンドは上級生が使っていて、拓海たちは使えそうになかったからだ。

「タク、昨日はどこまでボール取りに行ってたんだよ?」

「俺らも帰る前にタクを探しに行ったんだぜ。でもお前いなかったからさ」

 「悪い。住宅団地の方に行ってたからさ」

 「ああ、あそこな」

  拓海は昨日会った不思議な人たちのことを、友達に言うことができなかった。あの団地での出来事は、時間が経てば経つほど現実離れしたことのように感じられて、自分でも夢だったのではないかと疑うほどだった。

(あんな変わった人たちが、あの団地には住んでいるなんて……)

 「タク、次お前がバッターだぞ」

  考えにふけっていた拓海が我に返ると、ピッチャーはすでに準備万端という様子でボールを手に持っている。そのボールは、昨日拓海が探して高貴なマンションの管理人から受け取ったものだ。

 「次は飛ばしすぎるなよ!」

 「分かってるって!」

 金属バットを握って、ピッチャーの挙動に集中する。

(次は、飛ばしすぎないように……)

 拓海はそう自分に言い聞かせた。

  ピッチャーが振りかぶり、ボールが一直線に飛んできた。拓海は位置を見定めて、力を抜きながらバットを振る。

  そして金属を打つ痛快な音が響いた。

 

 それはもう、飛ばしすぎなんて程度のものじゃなかった。小さなボールは高く高く空へと打ち上がり、そのままどんどん小さくなって消えていった。

「えっ……」

 明らかに拓海の力ではなかった。拓海がゆっくりとバットを振るのを見ていた友達も、予想だにしていなかった勢いに呆然とするしかなかった。

 

『願いを1つ、叶えてあげたよ』

  拓海がボールの行方を見つめていると、どこからか、そんな声が聞こえた気がした。  

 

 

(2019.01.26)



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