芝居小屋


彼方に煌めく

「星を見に行こう」

 いつのことだったか先生は言った。

「こんな部屋の中で、教科書だけ見ていちゃあいけない。君は本物を見るべきだね」

 先生がそんな風に説教するのは、そのときが最初というわけではなかった。

  先生は何かにつけてわけ知り顔を浮かべて僕に言った。曰く、「頭で物を考えすぎるのがお前の良くないところ」で、「経験に勝る知識はない」そうだ。

 それはずっと部屋に閉じこもりっぱなしだった僕への、激励のつもりだったのかもしれない。

 しかしそのときの僕は先生の気持ちなど考えもしなかった。先生が僕よりずっと物知りで、いろんな経験をしている人だということは知っていた。僕は先生が、それを鼻にかけた嫌な大人なのだと思っていた。

 

 僕の生活はずっと幼い頃から部屋の中で完結していた。朝起きて、義務教育はパソコンで行う。学校というものはあるけど、僕は行ったことがない。食事は固形の栄養食で、決まった時間に1日分が部屋の前に配達されることになっている。

 1日の義務教育が終わったら好きに遊ぶことが許される。僕は本や図鑑を眺めていることが多い。

 先生は人にものを教える仕事をしている。だから僕は先生と呼んでいたけど、先生は義務教育を教える先生ではなかった。

 僕はそのことについて先生に聞いてみたことがある。けれど先生は「人類の発展に寄与しているのだよ」などと言って得意げになるばかりで、先生が何の先生なのかは分からず仕舞いだった。それでも、とても専門的で難しいことを教える先生らしい、ということは何となく知っていた。

 僕が図鑑や教科書を見ていると、先生は喜々として本に載っていないことまで詳細に語りだしたものだ。だけど僕が部屋から出たことがないと知ると、先生はいつしか知識を披露するときに「勉強ばかりしていては駄目だ」というような説教を付け加えるようになった。僕はそのたびに生返事で応えていた。

 

 「星を見に行こう」という提案も、そんな先生の考え方が根っこにあったのだろう。僕はそれに何と返しただろうか。きっといつも先生にそうしていたように、そのときも適当にあしらってしまったのだろうと思う。

 いずれにせよ、先生と星を見に行くことはなかったのだ。

 

 時は流れた。僕は相変わらず部屋に閉じこもったまま、怠惰な日々を送っている。かつての先生のような、僕を構いにくる物好きはいない。

 そんなとき部屋の中から1冊の教科書を見つけた。

 

 義務教育を終えてから、ずいぶんと月日が経っていた。当時使っていた教科書はほとんど電子書籍で、ほんの数冊あった紙の教科書も全て捨ててしまっていた。けれど手元に残っていたその教科書は、義務教育のための教科書じゃなかった。もうずっと昔――人類がまだ火星に到達すらしていない時代に使われていた科学の教科書だ。

 それは僕が好きで集めていた本のうちの1つで、とりわけ僕のお気に入りだった。

 僕がそれを読んでいると、先生はよく「ははぁ」と分かったような顔をしたものだ。そのたびに、1番好きなものですら先生の方がよく知っているのだと分かって、僕はちょっと嫌な気分になった。

 

 あるとき先生は、僕が見ている横から教科書を取り上げてぱらぱらとページを捲った。最後のページの奥付までしっかり確認して、「これはまだ宇宙開発が本格化する前の教科書だな」とか何とか言いながら、いつものようにウンチクを始めた。

 その内容は人類がいかにして火星にたどり着き、そこに移住するに至ったのか、というような話だった。義務教育でちょっとだけ勉強したことがあったけど、先生が語ったのはそれよりもずっと詳しい話だった。話のついでに教科書の内容を指して「星座の並びなんて教えていたのか。この時代の宇宙開発がいかに遅れていたか分かるもんだ」などと腐したものだがら、先生の話を興味深く聞いていた僕は気分を台無しにされた。

 先生が「星を見に行こう」と言ったのはそのときだ。

 

 昔の記憶に浸っているうちに、僕は唐突に思った。

(そうだ、星を見に行こう)

  今まで億劫に感じていたのが嘘のように、僕は思い切った決断をした。

 僕の住むシェルターから星は見えない。「星が見える場所」と検索してみると、ずいぶん遠い場所がモニターに表示された。それでも僕は躊躇わなかった。 初めて部屋を出て、モノレールに乗った。モニターで見たときにはとても遠くに感じたのに、そこに着くのはあっという間だった。

 モノレールを降りて、少し歩くと小高い丘が見えた。周囲には木々が植わっていて、シェルターのような人工物は見えなかった。街灯もない。きっと夜になるとこの辺りは真っ暗になるんだろう。 僕はそのとき初めて、星を見るにはまだ時間が早すぎることに気づいた。日が落ちるまで、しばらく待たなければいけない。

  仕方がないので、僕はこの場所で時間を潰すことにした。丘のてっぺんに登って、そのまま両手両足を広げて地面に寝そべる。すると目の前に、写真でしか見たことのなかった空が広がった。

 

(……遠い)

 僕が最初に思ったのはそんなことだった。本物の空は写真で見るのと全然違う。どこまでも青い空が、彼方まで続いている。どんなに手を伸ばしても届きそうにない。

 

 科学は進歩して、人は月にだって火星にだって行けるようになったのに。どうして僕の目にはこんなに遠く見えるんだろう。

 この遠い空に旅立った人たちがいることを思うと、そこに決して届かない自分がひどくちっぽけな存在に思えた。

(先生がいたら、今の僕を何て言うんだろうか)

 

「火星に行くことになった」

 最後に先生と会ったとき、先生は言葉少なにそう言った。

 いつもの先生だったら、次の瞬間には得意げに火星の知識を話し出したことだろう。

 ところがこの日に限って、先生はただの1度もウンチクを披露しなかった。その変わりに先生は僕に色んなことを聞いた。  

「楽しいことはあるか」、「外に出るのは嫌いか」、「将来の夢は何か」……先生が聞いたのは全部僕に関することだった。けれどどの質問にも、僕は上手く答えられなかった。僕が今までそれらを考えてこなかったからだ。自分のことでさえ何も知らないのだと気づいて、いよいよ僕は自分が嫌になった。

 それでも拙い言葉で話そうとする僕を見て、先生はただ「ウン、ウン」と頷いていた。僕は余計にいたたまれなくなった。

 

「人というのは夜空に瞬く星に似ている。たくさんいてどれも同じに見えるが、そんなことはない。じいっと見ていると1つ1つの違いに気づく。その1つ1つが毎日違う姿を見せる。こんなに面白いことはない」

 先生は何を思ったのか、僕にそんなことを言った。

「つまらない人間などいないよ。そのことに気づきたまえ」

 

 先生の乗った宇宙間エレベーターに誤作動が起き、乗っていた人がみな亡くなったと知ったのは、それから間もなくのことだった。

 

 

 僕がぼんやりしている間に、赤くて燃えるような大きな太陽が、遠くに見える山々の間に落ちていった。赤と青のグラデーションの空に、星はほのかな光を放ちながら瞬きはじめる。

 どんどん暗くなっていく空を見上げて、僕は火星を探した。煌めく星々を1つずつ指差して、星座をたどっていくうちに、ようやくそれを見つけた。

 先生が目指した星は、無数の星々の中に特別の輝きを放っていた。僕はそれを見て泣きたくなった。

 

 僕は目を見開いた。

 満天に輝く星々、その1つ1つをしっかりと目に焼き付けておこう。そして今感じている胸を揺さぶられるような気持ちを、忘れないでおこう。

 僕があの星に降り立つことはない。僕にとって宇宙はずっと遠い場所のままであり続けるだろう。

 

 それでもここから見上げた空だけは、僕が経験した本物だ。

 

 

 

(2020.01.23)



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