芝居小屋


「君は亡者のことをどのくらい知ってる?」

 唐突にシギーはそんなことを言った。

 

「え、亡者?」

 思いもよらない質問だった。たしかに今の話と全く無関係とは言えない。けれど彼らのことは森に住む何だかよく分からない生き物の一種、という程度にしか考えていなかった。

「よく知らない。あいつら、いつも木の陰から姿を見せないし。汚物を人間に投げつけるのが大好きってことは知ってる。あと森で死んだ冒険者の衣服を剥ぎ取って、自分の体に継ぎ接ぎしてるって聞いたことはあるけど」

「まあ、知られているのはそんなところだろうね」

「他に何か知ってるの?」

「どうして彼らが“亡者”って呼ばれているのか、その理由を考えたことはある?」

 

(亡者、亡き者……死者?)

 エイラはふと頭に浮かんだ思いつきに、息を飲んだ。

「亡者と“不死の秘宝”、何か関係があるってこと?」

「亡者の正体は、森で死んだ冒険者たちの成れの果てなんだ。そういう話を聞いたことがある」

「あれが元は人間だったって言うの。あり得ないわ」

 「けれど君は、亡者の姿を見たことがないよね?」

「それは、そうだけど……」

 エイラは先ほど見た木々の隙間から目を光らせている亡者たちを思い出した。決して陰から出てくることなく、人を見つけては汚物を投げつけてくるだけのやつらが、人間?

「亡者は死んだ人間の衣服を剥ぎ取るなんて言われているけれど、本当は違う。彼らの身につけているものは始めから彼らのものなんだ。彼らの衣服の下にあるのは、長い年月をかけてなお、腐りきったまま土に帰ることができない人間の死体だ」

「それ、本気で言ってるの?」

  馬鹿げてる、とエイラは思った。

 「そういう噂があるって話だよ。決して葉を落とすことがない木々と、死してなお徘徊する冒険者――だからこの森には、永遠の命を得られるもの……“不死の秘宝”とでも言うべき何かがあるのだと言われるようになったんだ」

  シギーはその美しい顔に恍惚とした笑みを浮かべた。

 

「救いのある話だと思わない?」

「救い? その話のどこに救いがあるっていうの」

 森で死んで、あんな姿になって彷徨うことが救いだというのなら、この男はよほど性格が捻れ曲がっているに違いない。

「あなたたち冒険者って、やっぱりどこかおかしいわ」

「そうかな?」

  シギーは不思議そうに言った。

「この森は人々を死の恐怖から開放してくれる、そういう可能性を秘めているんだよ。君は死が怖くないの?」

 もう耳も貸さないつもりだったのに、エイラはついシギーを見てしまった。無謀で命知らずだと思っていた冒険者に、死が怖くないのかと自分が問われることになるとは思わなかったのだ。

「私は冒険で命を落とすのはごめんだし、亡者になるのもごめんよ。普通に生きられればそれでいいの」

 「君の言う普通って何?」

 「こんな森とは関わらない生活のことよ!」

 

 ついに言ってやった、とエイラは思った。

 エイラは生まれてきてから今日までの間、1日だってこの生活を楽しいと思ったことはない。

 朝から夜まで店の手伝いばかりで、同年代の友達と遊ぶこともお洒落をすることも出来ない。街で生まれた子どもたちは、学校に行ったりお小遣いをもらって好きなものを買ったりして、もっと楽しく暮らしているのに。

 ここにやってくるのは冒険者ばかりで、面白いことなんて何もない。おまけに母まで冒険がどうとか、森がどうとか。もううんざりだ。

 「こんな森、消えてなくなればいいのよ」

 

 「もしかしたら、そういう日は近いかもしれないよ」

  シギーの言葉に、エイラは驚いた。

 「どうしてそう思うの」

「“不死の秘宝”を誰かが持ち帰ったとき、この森がどうなるのか考えたことはある?」

 「……消えてなくなるっていうの?」

「この森が朽ち果てないのも死者が蘇るのも“不死の秘宝”のせいだというのなら、そうなるんじゃないかな」

 もし本当にそうだとしたら、ほんの少しだけ溜飲が下がる。

 しかしエイラはすぐに思い直した。どうせそんな日は来ない。今までだって散々森に入っていく冒険者たちを見送ってきたのだ。これからだってそういう日が続くに決まっている。

「もしもあなたが“不死の秘宝”を持って帰って来られたら、ほんの少しだけ見直すかもしれない。……無理だと思うけど」

「はっきり言うなぁ」

 シギーはしばらく苦笑を浮かべていたが、やがて真面目な顔で言った。

 

「でも、君は本当にそれでいいの?」

 

 「どういう意味?」 

 エイラには、シギーの言いたいことが分からなかった。

 ワズワルドの森がなくなるなら、これ以上嬉しいことはない。この陰鬱な森が消えるというだけで、エイラは晴れやかな気分で1日を過ごすことが出来る気がする。

「いいに決まってるわ。この森があるかぎり、嫌なことだらけだもの」

 彼はエイラを意味ありげに見るだけで、そのまま押し黙る。

「何よ」

  エイラが沈黙に耐えかねて言った。

「私の言ってることがおかしい?」

「でもエイラ、きみのお父さんも亡者になったのかもしれないよ?」

 

(何てことを言うの、この人は!)

 エイラは唖然とした。

 たしかにシギーの言葉どおりなら、そういうことになるのだろう。シギーに全く悪気がないことは、今までのやりとりでエイラにも分かっていた。

 けれど自分の父が亡者になったかもしれないということは、エイラが想像するには嫌悪感が大きすぎた。

「やめて! 私はそんな話信じてない!」

「気に障ることを言うつもりはなかったんだ。ごめんね」

 シギーにそう言われても、エイラの怒りは収まらなかった。彼の手からデッキブラシを奪って、乱暴に床を擦る。

「もういいよ。あとは自分でやるから」

「そう。じゃあね、エイラ」

 

  エイラが顔を上げると、ちょうどシギーの仲間たちが店から出てきたところだった。彼らの服はみな厚い布地で寒さがしのげるようになっており、背中には大きなバッグを背負っている。いよいよ森に入るというところだろう。その中にシギーが加わって、他愛のない会話をしていた。 エイラはなるべくそれを見ないように、床の汚れに目線を落とした。

 

 

 

  それから幾日も過ぎた。

 ワズワルドの森は相変わらず、黒々とした陰を地面に落として不気味な雰囲気を漂わせている。

 エイラは日課になっている掃除のために外に出て、ふとシギーのことを思い出した。あの日からずいぶん経った。彼は今頃、あの森で何をしているのだろう。

(ううん、多分もう……)

 もしも彼が生きているなら、とっくに森から帰ってきているはずだ。持ち歩ける食料は限られているし、あの森に食べられる物があるとは思えない。

 

 ちょうどそのとき木々の隙間にあの青白い目を見つけて、エイラは身構えた。またあのヘドロ状の汚物を投げつけられたくはない。けれどその亡者はじっとエイラを見るだけで少しも動こうとしない。

「何なのよ」

  唐突に、あの日の彼の言葉が頭によぎった。

 

 ――きみのお父さんも亡者になったのかもしれないよ?

 もしそれが本当だったら。シギーに言われたときは怒りが収まらなかったけれど、時間を置いてから考えてみると、意外なほど冷静に受け止めることができた。

 

 たとえそれが本当だったとしても、エイラにはどうでもいいことだ。彼女にとって父は記憶の中にすら存在しない。はじめからいなかった人間のことをどうこう考えるのは難しい。それよりも目の前にいる厄介な生き物の方が、エイラにとってはずっと現実味のある存在だ。どんな風に考えても、それが父だとは思えない。

 

「あなたたちも厄介な生き物よね。いつもこれくらい大人しければ仲良く暮らせるかもしれないのに」

  エイラはつい、語りかけてしまった。彼らが言葉を理解するとは思えないけれど、不意に彼らに対する愛着のようなものが込み上げてきたのだ。

 

 その時、エイラの目の前にはらりと葉が落ちてきた。

 (え……?)

 落葉するはずのない木から、葉が落ちたのだ。エイラはそれをよく見ようとして、それが葉ではないことに気づいた。葉よりも柔らかくて白い、花びらだった。

  次の瞬間には、木々が一斉に蕾を付けはじめ、驚く間もなく花びらを開きはじめる。それはまるで止まっていた時間を推し進めるかのような光景だった。森に何かが起こったのだということはすぐに気づいた。

「シギー……あなたがやったの?」

  きっとそうだとエイラは思った。

  花びらが舞い散ると、次の瞬間には緑の葉が茂り、今度はそれが紅葉して地面に落ち始める。木々の隙間から光が差し込み、森の陰鬱な雰囲気は消えて、神々しさすら漂っていた。その木々の奥で、青白い目がエイラを見ている。まるで背骨の曲がった老人のような風体で、身につけている布はぼろぼろだった。

  亡者は太陽の光を受けて、霧のように消えていった。最後の瞬間に手を振って笑っていたように見えたけれど、それはエイラの気のせいだろう。

 亡者の顔はついに見ることが出来なかった。

 

 葉が落ちるとやがて幹が腐り、ワズワルドの森は跡形もなく消えてしまった。そこには森に飲み込まれた冒険者たちも、亡者たちの姿も、他の生き物の姿も、何もなかった。

 ただ荒涼とした大地と、ぽつんと佇む宿屋が1つあるだけだった。

 

 

(2019.01.27)



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