芝居小屋


ワズワルドの森

 憂鬱。エイラの1日はそんな感情から始まる。

 

  彼女の部屋はとにかく日当たりが悪くて、空気が湿っている。おまけに窓の外では、朝から晩まで、何だかよく分からない動物が耳を突き抜けるような甲高い声で鳴いている。それもこれも全て、エイラの部屋から見えるワズワルドの森のせいだ。

 

  ワズワルドの森は、生命の力強さとは対極にあるような陰鬱な森だ。エイラはこの森の木々が花や実を付けるところも、葉が赤く色づくところも、落葉するところも見たことがない。森はエイラが物心をついたときにはすでにここにあって、その姿は全く変わることがなかった。

 何度季節を巡っても、人々の生活の営みが変わっても、森はぽつんと取り残されたように、ただ不気味に存在していた。

 

「はあ、憂鬱」

 毎日唱えていた言葉をその日も繰り返して、エイラはベッドを出た。

 クローゼットから取り出すのは毛糸のセーターと、動きやすい紺色のズボン、それにお店の地味なエプロン。昨日とほとんど代わり映えしない服装だけど、こんな場所で暮らしていては、お洒落な服なんて揃えようがない。

 

 「おはよう、エイラ」

 エイラが部屋を出ると、ちょうど母が通りかかった。

 「こんなに朝早くから掃除をするのね、感心だわ」

 (しなかったら、どうせ小言を言うくせに)

  エイラは心の中で悪態をついた。

 母はいつもエイラが何か言う前から、こうだと決めつけて1人で納得するところがある。

「朝食はいつにする? もう少し後でもいい?」

 「いいよ。食べたいときに自分で準備するから」

  エイラは素っ気なく言った。

 2人が会話している通路の奥からは、スプーンが皿に当たる音と一緒に、男たちの陽気な声が聞こえてくる。それが余計にエイラの気分を逆なでした。しかし母は、そんな様子には気づかないようだった。

「手がかからなくて助かるわね。掃除が終わる頃にはお客様もいなくなってるはずだから」

「そうなの」

 「それよりあんた、あの話を聞いた?」

 母の口調が、どこか浮ついたトーンに変わった。エイラは嫌な予感がしたけれど、こういうときに上手く躱す方法が分からない。彼女の予感通りに、母はさして興味のないことを饒舌にエイラに話しはじめた。

「昨日のお客さんの何人かが、どうやら有名な冒険家らしいのよ。何でも“不死の秘宝”を手に入れるための一大プロジェクトなんですって。国が多額の資金を投入しているって話よ。これで今度こそ、あの森の秘密が分かるんじゃないかしら!」

「ふうん」

 エイラはうんざりした。

「母さんがもう少し若ければ一緒に冒険の準備をしていたけど、この歳じゃもう駄目ねぇ。せめてあの人がいてくれたら、挑戦する気持ちにもなれたでしょうけど」

 母は遠い記憶を眺めるように、うっとりとした顔で窓の外を見ていた。

 すっかり割烹着が板についているけれど、母はその昔、名の知れた冒険家だった。腕には今も癒えないままの細かい傷があるし、年齢のわりに筋肉もついている。エイラが生まれる前は、父と一緒にいろんな場所を巡り、未開の地を踏破したらしい。

 けれどそんな父と母の血を受け継いだエイラは、ただの宿屋の娘でしかない。もちろん冒険にも興味がない。

「その話、今聞かなきゃ駄目?」

 エイラが言うと、母は慣れた様子で頷いた。

「はいはい。掃除、頑張ってちょうだいね」

 

 

 

(冒険者って、どうしてみんなああなのかしら)

 店の入り口をデッキブラシで磨きながら、エイラは思った。

 母のあの浮足立った様子が嫌いだ。それに母だけではない。宿を取る冒険者たちはみんな、揃いも揃ってあんな感じなのだ。彼らは国中のいろんな場所からやって来て、意気揚々とワズワルドの森に踏み入っていく。『自分たちこそが“不死の秘宝”を持ち帰るのだ』と吹聴している彼らを、エイラは何度も見てきた。けれど実際に森から帰ってきた者は見たことがなかった。

 

 (“不死の秘宝”? 馬鹿みたい)

 そんなものが本当に存在するのかさえ分からない。何しろ、それを見た人はいないのだ。けれど冒険者はみんな、そんな不確かな噂を信じていた。たしかにこの森は少しおかしいところもある。だからと言って、そんなもののために命をなげうつ人たちのことはエイラには理解できない。

 エイラは森を見た。木々の枝は葉をたくさん付けて、重たそうにしなだれかかっている。そんな木が折り重なるように生えて黒い影を作っていた。

 木々の隙間には、小さくて青白いものが点々と光っている。それは等間隔で2つずつ、エイラの動きに合わせてぎょろりと移動する。エイラにはすぐにそれが何なのか分かった。

 

 目だ。

 

 「亡者たち!」

 エイラはとっさに店の中に駆け込もうとした。

  しかしそれより早く森から何かが飛んできて、べちゃり、と音を立ててエイラの足元に落ちる。 それは茶色いヘドロのような見た目をしていて、腐った魚みたいな鼻を突く臭いだった。

「うっ……」

  幸運なことにそれはエイラには当たらなかった。けれど次の瞬間に、べちゃ、べちゃ、と茶色いヘドロが飛んできては、エイラの周囲に飛び散った。

「ちょっと、何してくれるのよ!」

  せっかくの掃除が台無しだった。

 エイラが大声を上げると、ヘドロの攻撃がぴたりと止む。森の奥に目をやると、先ほどまであった青白い目がすっと消えてしまっていた。

「何よ、今日はやけに聞き分けが良いじゃないの」

 いつもの彼らはひとたび遭遇すると、手のつけようがないほど執拗にヘドロを投げつけてきて、その攻撃は森から離れないかぎり続く。それが今日に限っては、やけにあっさりと居なくなってしまった。

「大丈夫?」

 不意に背後から声をかけられて、エイラは振り向いた。そして、亡者たちが逃げた理由を理解する。

 

 そこには若い男が1人、エイラの身長ほどもある長い柄のついた大斧を軽々と掲げて立っていた。

「追い払おうと思ったんだけど、その必要はなかったね」

 昨晩に泊まっていった冒険者の一人だとすぐに分かった。

 エイラは客の顔を一人ひとりしっかり覚えていたわけではなかったけれど、この男の目を引く容姿はしっかりと記憶に残っている。

  というのも、男の顔立ちは一瞬にして目を奪われるような美しさだった。長い睫毛から艷やかな唇まで、まるで芸術品のように繊細な造りをしている。エイラが今まで見てきた冒険者はたとえ顔立ちが良い者でも、過酷な暮らしのうちに身なりの整え方など忘れてしまったような者たちばかりだった。しかし目の前の男は少し違うようだ。

 「酷い有様だね」

  彼は周囲に飛び散ったヘドロを見て言った。

「よかったら手伝おうか、お嬢さん」

 「結構です」

 エイラは率直に関わりたくないと思った。

 ただでさえ冒険者が嫌いなのに、この男はその上に驚くほど美形で身なりもしっかりしている。どう見ても普通の人より恵まれている人間だ。それなのに数ある職業の中からあえて冒険者を選んでいる。

 絶対に分かり合えないタイプの人間だと思った。

 

「実のところ、僕も出発まで暇なんだ。時間をつぶしたいんだよ」

 「お構いなく。お客さんに手伝ってもらったなんて知られたら、母さんの鉄拳が飛んでくるもの」

 「私は客ではないから、鉄拳は飛んでこないと思うよ」

  男がやけに食い下がるので、エイラはますます関わりたくないと思った。

 「あなた、昨日うちの店に泊まった人でしょう? お客さんだわ」

 「チェックアウトを済ませてしまったんだ。だからもう客じゃない」

 彼はそんな屁理屈を言って、エイラより先に地面に転がっていたデッキブラシを拾った。掃除道具を取られてしまったので、エイラは仕方なくその様子を眺めるしかない。

 

 「お嬢さん、名前は?」

  男が床を磨きながら聞いた。

「……エイラ」

「エイラか。僕はシギー」

 名前なんて、知りたくもないと思った。どうせ会うのは今日で最後になる人なのだから。

「君のお母さんって、宿を切り盛りしてるあの腕っぷしの強そうな女性のこと?」

「そうだけど」

「お父さんは?」

 この人はどうしてそんなに不躾に質問をしてくるのだろう、とエイラは不快に思った。

「会ったことない。私が生まれる前に森に入って、それっきりだって」

「そう。聞かない方が良かったかな?」

 聞いたあとでそんなことを言われても困る。エイラはやっぱりこの人とは分かり会えないと確信した。

「別にいいよ。悲しいとか寂しいとか、そういう気持ちはないから」

 そう言ってからエイラは、自分も少しだけ気になっていることがあると気づいた。 「ねえ、私も聞いていい?」

「何かな」

 シギーが掃除の手を止めた。

「あなた冒険者でしょ? さっきみたいなのを見ても、森に行きたいと思ってるの?」

「面白いことを聞くね」

 エイラには何が面白いのか分からなかった。

 

「だって、割に合わない冒険だわ」

 エイラには冒険者がみな、ただの命知らずに見える。彼らは自分が生きて帰れることを少しも疑っていないのだろうか。それとも、命をかけるほどの価値があの森にあると思っているのだろうか。エイラにはそうは思えない。

「あなたも“不死の秘宝”とかいう、本当に存在するかどうかも分からないものを探してるんでしょ? それって命をかけるほど大切なこと?」

 シギーは穏やかな態度でエイラの話を聞いている。それなのにどうしてか、エイラには彼の目が楽しそうに笑っているような気がした。




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